作品について・りんご編

芸術宣言後、第1作目『群衆』をWEBサイトで発表しました。

www.naoyaohkawa.com/gunshu.html

作品の正しい見方というのは、基本的にはないんじゃないかと思う。
映画や小説、グラフィック、絵画、音楽、写真、その他たくさんの「作品」というものの楽しみかたは、見る人がそれぞれ好きにしたらいいと思っている。
美術の読み解きかた、芸術の見方に関して書かれている名著は数多くあるし、評論は時に対象の作品そのもの以上に華麗で美しい。好きにしたらいいじゃないというのも、お前の鑑賞の仕方は間違っていると糾弾するのも、基本的にはみんな穏やかにやったり、波風たてながら勝手にそれぞれ楽しんでいる。

ミッフィーちゃんてとても可愛いからこの手帳使っているんだよという人もいるし、これはコウコウコウでコウコウコウだからその価値を認めてこのリトグラフを飾っているんだよという人もいる。深い考察がなければミッフィーちゃんの手帳を使っちゃいけないなんてことはありえない、深い考察が全然お門違いだからリトグラフを所有する権利はないなんてこともない。なかにはそういう作家さんもいるんだろうけれど、まぁ、それも例に漏れず勝手に楽しんでいる。著作権やいくつかの決まりごとさえ犯さなければ、なんでもありだ。

ミケランジェロのダビデ像を目にした時、あまりの美しさに変な汗をかいて、迫力に圧倒されて心臓がなった。生々しさに興奮もした。色々な考えが炎のように頭を巡って、美術館を出た時、燃えカスのように頭に残っていたのは「ミケランジェロ先生、マッチョな青年好きなだけじゃないすか!」という思い。そういう人もそれはそれでもうその人の勝手だ。よくわかんない、というのだって感想のひとつだ。

肖像画を前にして、
ヴェネツィアの若い女性「えヤバ超盛れてる」
デューラー「だよネでしょー!?鼻高すぎちゃってないかなぁ!?」
ヴェネツィアの若い女性「えヤバー!全然そんなことないよぉー!」
という会話を想像することが禁止されているはずもない。印象派の天才たちも「セザンヌゥー!新しいの見たよう、すっごいねぇ!!」とか言いながらワイワイキャピキャピやっていたかもしれない。表現は自由で、もしいつかそれが許されなくなっても、その受け取り方にはいつだって自由が許されている。

作品との対話、というといかにもアレがアレな感じがするけれど、勝手に語りかけてみれば、なにか勝手な返答があることもある。

『 群衆 』という作品や、これから発表するいくつもの作品を見てよくわかんないと思った人は、本当にさみしいし悲しいしショックだけれどよくわかんないで終わらせてしまってもいいし(本当にさみしいし悲しいしショックだけれど)、なんでよくわからないんだろうと考えてみるのも楽しいかもしれないし僕が嬉しい。いやめっちゃ気に入ったよ、もっとこれについて知りてぇよという人がいたら、色々調べたりしてくれてもいいし作者に色々問い詰めたりしながら、他の作品も楽しみにしていてほしい。

なんでりんご編なのかとか、これ発表してどうすんの、どうしたいのという話はまた近い内に文章にするので、一旦そこは忘れて、好き勝手にやってくれたら嬉しい。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です